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目にみえねえんだな

 私達の生活は無常である。常で無い。お金も財産も地位も名誉も結局のところ少しづつ変化をしている。「今日一日無事にすごせました」というけど無事ではない。何事もないのではなく「今日の1日、自分で気付くほどの大きな変化はありませんでした」と言うほうが正確なのかもしれない。変化に気付かないだけで細胞は衰え、単語のひとつでも忘れていることだろう。些細な変化が大きく積み重なり初めて「大変なことがおこった」と認識できる。お金は大切だがよりどころとはならない。使えば無くなるし、使わなくても命尽きた後、もっていけなし(笑)

それに対して変化の無いものを法とよぶ。一如とよぶ。仏とよぶ。

【ここからは勝手なイメージにはいります】
 無数の命のつながりの本体みたいなものかな。大きな木の下に無数に生えた根のようなものかな。根は複雑に絡み合いつながりあっている。その上に大きな木がある。
 
 または海のようなものかな。綺麗な川、汚い川、広い川、狭い川、長い川、短い川様々な種類の川が流れ着くところは海であり、海に入れば一味。ひとつの塩味となる。いままでどんな川だったかなど関係ない大きな海となる。一如とはこの海みたいなものかな。
 まあ、私達が考えるあの人の命、この人の命、役に立つ命とかではない、分別を超えた命のつながりをいうのではないのかな。

 仏の働きは目にも見えないし、耳にも聞こえない。言葉にもできない。食べることも出来ない。しかし、これこそが支えとなる。私達は目に見えるものを信じ、言葉に頼り、聞こえる音をよりどころとする。でも全て自分と言うフィルターを通した出来事。無常の世界の出来事。

 例えば引力は目に見えない。しかし、なくなると私達はどこか宇宙のかなたへ飛ばされてすぐに死んでしまう。空気にしろ無意識で呼吸をしているがなくなると窒息する。でも働きは存在する。

働きが形をとって現れてくれたのが阿弥陀如来(一如より来る)真実から来たってことだな。
なんのために?私達に近づくために。「わが名をよべ」と働きかけてくださる。その呼び声こそが南無阿弥陀仏なのだ。私達の口から真実が出てくださるんだ。

御仏の御名(みな)をとなふるわが声はわが声ながらたふとかりけり
                                  甲斐和里子(かい わりこ)

by bongu04200420 | 2008-01-25 00:27

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