微妙な一言
2008年 01月 04日
年に一回ある高校に法話に行っている。今年もつい最近行ってきたのだが、話の流れで「この学校で様々なことを勉強して立派な大人になってください」と言ってしまった。
仏教の言葉に対治と同治というものがある。たとえば熱が出た人に氷で冷やして熱が下がるようにするのを対治という。布団などたくさんかけて、暖かくして汗が充分出るようにして熱が下がるようにするのを同治という。あるいは、元気をなくしている人に「なにをくよくよしている元気だせ」といって元気を出させるのを対治という。一緒に涙を流すのを「同治」という。対治より同治の方が数段上なのだそうだ。
ある病院の先生はこの対治と同治の話を聞いて患者さんに同治につとめなければいけないと思うようになり、そのようにつとめていたつもりだった。そんなある日病院に中一の女の子が食欲不振症という病気で入院してきた。その子はすでに30キロくらいまで痩せていて入院しなければならなくなった。看護婦さんたちは毎日ミーティングを開く。
「誰か当番であの子と一緒に食べてやろう」
「給食室に頼んであの子が食べたいものを作ってもらおう」などなど、様々な提案がなされそれが実施されたそうだ。主治医の先生は
「この子が食べないようになったのはなぜ?」学校問題か?家庭問題か?友達家族とも会って事情を聞き原因をつきとめる努力をした。
親御さんも自分が食べられない以上に心を痛め、なんとかこの子が食べられるようにと努力した。
このように、多くの人がこの子のことを思い、親身になって努力する。これを同治と誰もが思っていたが実は対治であった。というのも結局「この子が食べないのは許さない」という一点において対立しているのだ。
「同治」というのは「食べないなら食べないでいいよ」そんなこといったら痩せ細るじゃないか?「痩せたら痩せたでいいよ」というのが同治だ。そんなこといったら死んでしまうではないか?「死んだってかまやしない。見捨てないよ」というのが本当の同治である。
実は本当の同治とは阿弥陀如来のことである。
「目が見えようが見えまいがかまわない」「病気であろうが健康であろうが問題ない」「三歳で死のうが九十まで生きようが関係ない」『どんなことがあってもお前を見捨てはしない』
「同治」とは無条件の承諾、受け入れ、絶対肯定、阿弥陀さんの慈悲のことであった。このことをふまえて
「この学校で様々なことを勉強して立派な大人になってください」という私の言葉は立派にならなくてはいけないという否定からはじまっているように思え反省した。
(2006年12月『永照寺だより』より)
仏教の言葉に対治と同治というものがある。たとえば熱が出た人に氷で冷やして熱が下がるようにするのを対治という。布団などたくさんかけて、暖かくして汗が充分出るようにして熱が下がるようにするのを同治という。あるいは、元気をなくしている人に「なにをくよくよしている元気だせ」といって元気を出させるのを対治という。一緒に涙を流すのを「同治」という。対治より同治の方が数段上なのだそうだ。
ある病院の先生はこの対治と同治の話を聞いて患者さんに同治につとめなければいけないと思うようになり、そのようにつとめていたつもりだった。そんなある日病院に中一の女の子が食欲不振症という病気で入院してきた。その子はすでに30キロくらいまで痩せていて入院しなければならなくなった。看護婦さんたちは毎日ミーティングを開く。
「誰か当番であの子と一緒に食べてやろう」
「給食室に頼んであの子が食べたいものを作ってもらおう」などなど、様々な提案がなされそれが実施されたそうだ。主治医の先生は
「この子が食べないようになったのはなぜ?」学校問題か?家庭問題か?友達家族とも会って事情を聞き原因をつきとめる努力をした。
親御さんも自分が食べられない以上に心を痛め、なんとかこの子が食べられるようにと努力した。
このように、多くの人がこの子のことを思い、親身になって努力する。これを同治と誰もが思っていたが実は対治であった。というのも結局「この子が食べないのは許さない」という一点において対立しているのだ。
「同治」というのは「食べないなら食べないでいいよ」そんなこといったら痩せ細るじゃないか?「痩せたら痩せたでいいよ」というのが同治だ。そんなこといったら死んでしまうではないか?「死んだってかまやしない。見捨てないよ」というのが本当の同治である。
実は本当の同治とは阿弥陀如来のことである。
「目が見えようが見えまいがかまわない」「病気であろうが健康であろうが問題ない」「三歳で死のうが九十まで生きようが関係ない」『どんなことがあってもお前を見捨てはしない』
「同治」とは無条件の承諾、受け入れ、絶対肯定、阿弥陀さんの慈悲のことであった。このことをふまえて
「この学校で様々なことを勉強して立派な大人になってください」という私の言葉は立派にならなくてはいけないという否定からはじまっているように思え反省した。
(2006年12月『永照寺だより』より)
by bongu04200420
| 2008-01-04 12:30