山本仏骨和上の答え 他力
2007年 11月 18日
他力本願ということは、自分は少しも努力しないで、他人の援助を待っているような、怠け主義にはなりませんか。
世間一般の人は自力他力という問題を、きわめて常識的に考えて、すべて自分のすることを自力といい、他人にしてもらうことを他力というふうに解釈しているようです。 だから宗教的にめざめることも、聞法に心がける決意も、すべて自力であるというように考えるのです。
もし自力他力という問題をそのように決定するときは、他力とはなにも考えない、なにもしないということになって、結局なんらの意欲もおこさない、腑抜けの殻になるというほかはありません。そこから他力本願はつまらない、自力更生でなければならないという批判もうまれるのです。しかしそのようなことは他力というよりは他律的思想いう方が適当でしょう。世間一般の人は存外その区別を明確にしていないようです。
親鸞聖人が自力他力といわれたのには教義的歴史があるのであって、すでに「定散自力」といい、「定散の自心」という言葉がありますように、われわれが悟りを開く困果について、定散二善をはたらかすことを自力といい、定散二善を脱却することを他力というのです。だから他力信心をあらわすときには「定に非ず、散にあらずといわれています。
その定散二善とは中国の善導大師が自力諸善を、この二つに分類し統括されたのであって、定善とはみずから心を静めて智慧をみがき、仏の世界を観察して、仏を捉えようとすることであり、散善とは仏を捉えきるほどの力はないが、せめてりっぱな心になって仏に近づこうとすることです。それはいずれも、りっぱなものに違いありませんが、しかしわれわれは口に念仏を称えながら、心に地獄の業をつくり、姿に仏をおがみながら、心は地獄餓鬼の世界をかけずりめぐつています。だからみずから悟りを開くことができないもののために、仏の方から救いの因果をあたえたので、これを他力回向の法というのです。
しかも他力に回向という言葉をつけて熟語とされているところに、親鸞聖人独特の他力思想があるのであって、ただ漫然と外から加えられるはたらきを待つというのでなく、仏の命がかよい、仏の力を身にうけて、それをわが主体としていくのです。
だから真の根底をもたない自力よりは、いっそう大きな主導力をもってはたらくことができるといわなければなりません。
このように悟りを開く因果について、定散を主体とするか、仏力を主体とするかということで、自力他力を分けたのであって、たんに求道の決意や、聞法の意欲における行動で自力他力をいったのではありません。そのことは親鸞聖人みずから書かれたものによって、よくその意味を領会すべきでしょう。
世間一般の人は自力他力という問題を、きわめて常識的に考えて、すべて自分のすることを自力といい、他人にしてもらうことを他力というふうに解釈しているようです。 だから宗教的にめざめることも、聞法に心がける決意も、すべて自力であるというように考えるのです。
もし自力他力という問題をそのように決定するときは、他力とはなにも考えない、なにもしないということになって、結局なんらの意欲もおこさない、腑抜けの殻になるというほかはありません。そこから他力本願はつまらない、自力更生でなければならないという批判もうまれるのです。しかしそのようなことは他力というよりは他律的思想いう方が適当でしょう。世間一般の人は存外その区別を明確にしていないようです。
親鸞聖人が自力他力といわれたのには教義的歴史があるのであって、すでに「定散自力」といい、「定散の自心」という言葉がありますように、われわれが悟りを開く困果について、定散二善をはたらかすことを自力といい、定散二善を脱却することを他力というのです。だから他力信心をあらわすときには「定に非ず、散にあらずといわれています。
その定散二善とは中国の善導大師が自力諸善を、この二つに分類し統括されたのであって、定善とはみずから心を静めて智慧をみがき、仏の世界を観察して、仏を捉えようとすることであり、散善とは仏を捉えきるほどの力はないが、せめてりっぱな心になって仏に近づこうとすることです。それはいずれも、りっぱなものに違いありませんが、しかしわれわれは口に念仏を称えながら、心に地獄の業をつくり、姿に仏をおがみながら、心は地獄餓鬼の世界をかけずりめぐつています。だからみずから悟りを開くことができないもののために、仏の方から救いの因果をあたえたので、これを他力回向の法というのです。
しかも他力に回向という言葉をつけて熟語とされているところに、親鸞聖人独特の他力思想があるのであって、ただ漫然と外から加えられるはたらきを待つというのでなく、仏の命がかよい、仏の力を身にうけて、それをわが主体としていくのです。
だから真の根底をもたない自力よりは、いっそう大きな主導力をもってはたらくことができるといわなければなりません。
このように悟りを開く因果について、定散を主体とするか、仏力を主体とするかということで、自力他力を分けたのであって、たんに求道の決意や、聞法の意欲における行動で自力他力をいったのではありません。そのことは親鸞聖人みずから書かれたものによって、よくその意味を領会すべきでしょう。
by bongu04200420
| 2007-11-18 15:16