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法話というもの

最初にまとまってない文章で申し訳ない。なんとなく今の心にあることを書いてみようと思う。

お彼岸の期間中、2人の先生の法話を聞いた。1人の先生は忠実に親鸞聖人の書き記された御文を解釈していくような法話だった。その話しぶりに迫力があるわけではなく淡々と話が進んでいく感じ。もう一人の先生は聞いている人から大爆笑をとって、ときおり感動する話を織り交ぜる。多くの御門徒さんは「また呼んでください。わかりやすかった」と言っていた。
これは本当に正直な感想で両方の先生とも大好きだった。
しかし、最近わかりやすく楽しい法話だからいい法話だとは思わなくなった。こちらの理解できる話であろうが理解を超えた話であろうが法話はありがたい。すべてを理解してうなずけていけないからこそありがたいようにも思う。意味不明な文だがそう思う。
話す人が大先生であっても門徒さんであっても友達であっても嫁であっても家族であってもそこに仏の話がでた時はその人の人格を超えてありがたい。法話を聞いた感想は誰がどうしゃべっても自由だしそこから味わいが深まる世界もある。法話を聞くことが問題提起なのかもしれない。

法話という2文字を見ると最近必ずある有名な先生の言葉をおもいだす。
病院で療養中、本願寺の総会所で法話を聞いている時、いつも法話に対して批評をしていたらしい。「今日の法話はこうだったとか、ああだったとか」しかし、何日か法話に通っている時に気づいたことがあった。総会所に毎日いるおばあちゃん、どんな法話に対しても「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えて一生懸命拝んでいるのだ。その姿を見て、先生はハッとした。「今まで法話を聞いて批判をしていたけど、法話とは聞く側の姿勢に問題があるのではないか」

講演会などは「こちらが話を聞く」ということでいいと思うが法話は少し異をなしている。「聞かせていただく話」とでもいおうか、話であって話でない。そんなことを言いながらもふと気付いたら誰かの法話を批判をしていることだろう。情けない限りである。

この法話というものについてはこれからも時を見て書いていこうと思う。考えが変わっていくか
もしれないし…
by bongu04200420 | 2007-09-26 14:13

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