私のヨン様
2011年 09月 22日
巷ではペ・ヨンジュンのことをヨン様とよぶそうだが、僕にとってのヨン様は他にいる。
「不安は私のいのちやもん」
(山崎ヨン)
松本梶丸 編著『生命の大地に根を下ろし』で紹介された、石川県金沢市在住の山崎ヨンさんというおばあちゃん【詳しくはわからないが、往生されていると思う】の話。ちょっと長いけど、時間を空けて読んで頂きたい。
ある新興宗教の勧誘が家を訪ねてきて、
「ばあちゃん、不安ないか」と質問した。
「ええ、不安ありますよ」
というと、勧誘が
「不安あるでしょう。私ら、その不安を無くす会を無料でしとるさけ、婆ちゃんもそこにいって、不安とってもろたらどうや」と言う。
我々の生活を振りかえってみれば、仕事のこと、家庭のこと、健康のこと、将来のことなど、実にさまざまな「悩み」や「心配」、「不安」をかかえてそれぞれ生きている。心身を煩い悩ませることの連続だ。
そんな日々の最中に「不安がなくなる」と聞かされれば
「そんなうまい話があるなら……」と飛びつく気持ちもわからないではない。
まして、この山崎さんは障害(聾唖)をもったお子さんとの二人暮し。自身も高齢とあらばすがりつくような気持ちになることが推測できる。しかし、山崎さんは次のように答えられた。
「そうか、ご苦労さんやねえ。不安の世の中でねえ。
そやけどこの不安、あんたにあげてしもうたら、ウラ、なにを力に生きていったらいいがやろね。
不安は私のいのちやもん。不安とられたら生きようないがんないか。ウラ、まだ死にとうねえもん」
と答えたそうだ。勧誘の人は山崎さんの顔をじっと見て、目をつぶったそうだ。
「なんしとるがや、あんた」
と言うと、
「ばあちゃんのこべ(ひたい)から光さしとるわ」
といって帰っていったそうだ。
宗教(仏教)に対して抱く、よくある誤解のひとつに、宗教(仏教)を学べば(修行すれば)、何事にも動じない、どんな時でも怒ったり泣き叫んだりしない冷静沈着な心、いわゆる「不動心」を得ることができる。あるいは「不動心」を得ることが宗教(仏教)の「救い」である、というものが挙げられる。
しかし、仮に、この勧誘の人が言ったように、本当に「不安」、「心配」、「悩み」がなくなったならば、どうなるのだろう?それこそ何にもやることがない。退屈で退屈で、しまいにはボケてしまうのではないだろうか。
極端に言えば、自分がこの世に生きている理由、必然性がなくなってしまうのではないか。
日頃子育てに振りまわされて自分の時間もろくに持てなかったお母さんが、ある日、子供たちがそろって外泊ということになり、思いがけず自由な時間ができたそうだ。
暇ができたらあれもこれもと計画を練っていたのに、いざ体が空くと何をする気にもなれない。
それどころか、誰もいない家の中に一人ポツンと居ると寂しくて我知らず涙さえこぼれてきてしまって、いつのまにか「子供と一緒の生活」こそが自分の「本当の生活」になっていたことに初めて気がついた、というものだ。
自分が頑張って子供を育てている。
自分の時間を子供のために犠牲にしている。
子供がいるからいろいろと悩まなきゃならない。
(子供さえいなければ私は自由で悩むこともない)
お母さんの「想い」はこうだったが、「事実」は逆で、悩みやグチの種であるはずの子供に支えられ励まされ生かされて生きてきたのだろう。
山崎さんは、障害をもった我が子のために自分が犠牲になったと、わが子を白い眼で見たこともあったそうだ。しかし、山崎さんの心は変わっていった。
『生命の糧であったにもかかわらず、申し訳ないことに自分はその子を邪魔者扱いしてきた。
自分のその「鬼の心」を気づかせるために、自分を「お念仏の世界」に立たせるために、この子がおってくれたんだ。そして、「自分の人生」と言うならば、子供の行く末で思い悩むことが「自分が生きる」ことであって、それ以外に「自分が生きる」ということはない。これこそが他の誰のものでもない、誰に代わってもらうこともできない「自分の人生」なのだ』
『まあ、自分のただひとつ心にかかることは、こいつ(子ども)のことやね。
自分が死んだら、この子はどうして生きていくんやろうなあ、と。
この子の将来のことおもうとやっぱりやりきれん。心ぼそいわね。
でも、これ(子供)と後生の問題とが、縄のように自分を支えとる。
これが自分の生命やとおもうとります。』
こう決着することは決して容易な道ではなかったはずだ。
しかし、「不安の種」という眼を転じて「生命の糧」と見る智慧の眼に感嘆した。
【上手く書ききれない感じだったのでちゃんと文章をまとめて来月の法話に書かせて貰おうと思う】
「不安は私のいのちやもん」
(山崎ヨン)
松本梶丸 編著『生命の大地に根を下ろし』で紹介された、石川県金沢市在住の山崎ヨンさんというおばあちゃん【詳しくはわからないが、往生されていると思う】の話。ちょっと長いけど、時間を空けて読んで頂きたい。
ある新興宗教の勧誘が家を訪ねてきて、
「ばあちゃん、不安ないか」と質問した。
「ええ、不安ありますよ」
というと、勧誘が
「不安あるでしょう。私ら、その不安を無くす会を無料でしとるさけ、婆ちゃんもそこにいって、不安とってもろたらどうや」と言う。
我々の生活を振りかえってみれば、仕事のこと、家庭のこと、健康のこと、将来のことなど、実にさまざまな「悩み」や「心配」、「不安」をかかえてそれぞれ生きている。心身を煩い悩ませることの連続だ。
そんな日々の最中に「不安がなくなる」と聞かされれば
「そんなうまい話があるなら……」と飛びつく気持ちもわからないではない。
まして、この山崎さんは障害(聾唖)をもったお子さんとの二人暮し。自身も高齢とあらばすがりつくような気持ちになることが推測できる。しかし、山崎さんは次のように答えられた。
「そうか、ご苦労さんやねえ。不安の世の中でねえ。
そやけどこの不安、あんたにあげてしもうたら、ウラ、なにを力に生きていったらいいがやろね。
不安は私のいのちやもん。不安とられたら生きようないがんないか。ウラ、まだ死にとうねえもん」
と答えたそうだ。勧誘の人は山崎さんの顔をじっと見て、目をつぶったそうだ。
「なんしとるがや、あんた」
と言うと、
「ばあちゃんのこべ(ひたい)から光さしとるわ」
といって帰っていったそうだ。
宗教(仏教)に対して抱く、よくある誤解のひとつに、宗教(仏教)を学べば(修行すれば)、何事にも動じない、どんな時でも怒ったり泣き叫んだりしない冷静沈着な心、いわゆる「不動心」を得ることができる。あるいは「不動心」を得ることが宗教(仏教)の「救い」である、というものが挙げられる。
しかし、仮に、この勧誘の人が言ったように、本当に「不安」、「心配」、「悩み」がなくなったならば、どうなるのだろう?それこそ何にもやることがない。退屈で退屈で、しまいにはボケてしまうのではないだろうか。
極端に言えば、自分がこの世に生きている理由、必然性がなくなってしまうのではないか。
日頃子育てに振りまわされて自分の時間もろくに持てなかったお母さんが、ある日、子供たちがそろって外泊ということになり、思いがけず自由な時間ができたそうだ。
暇ができたらあれもこれもと計画を練っていたのに、いざ体が空くと何をする気にもなれない。
それどころか、誰もいない家の中に一人ポツンと居ると寂しくて我知らず涙さえこぼれてきてしまって、いつのまにか「子供と一緒の生活」こそが自分の「本当の生活」になっていたことに初めて気がついた、というものだ。
自分が頑張って子供を育てている。
自分の時間を子供のために犠牲にしている。
子供がいるからいろいろと悩まなきゃならない。
(子供さえいなければ私は自由で悩むこともない)
お母さんの「想い」はこうだったが、「事実」は逆で、悩みやグチの種であるはずの子供に支えられ励まされ生かされて生きてきたのだろう。
山崎さんは、障害をもった我が子のために自分が犠牲になったと、わが子を白い眼で見たこともあったそうだ。しかし、山崎さんの心は変わっていった。
『生命の糧であったにもかかわらず、申し訳ないことに自分はその子を邪魔者扱いしてきた。
自分のその「鬼の心」を気づかせるために、自分を「お念仏の世界」に立たせるために、この子がおってくれたんだ。そして、「自分の人生」と言うならば、子供の行く末で思い悩むことが「自分が生きる」ことであって、それ以外に「自分が生きる」ということはない。これこそが他の誰のものでもない、誰に代わってもらうこともできない「自分の人生」なのだ』
『まあ、自分のただひとつ心にかかることは、こいつ(子ども)のことやね。
自分が死んだら、この子はどうして生きていくんやろうなあ、と。
この子の将来のことおもうとやっぱりやりきれん。心ぼそいわね。
でも、これ(子供)と後生の問題とが、縄のように自分を支えとる。
これが自分の生命やとおもうとります。』
こう決着することは決して容易な道ではなかったはずだ。
しかし、「不安の種」という眼を転じて「生命の糧」と見る智慧の眼に感嘆した。
【上手く書ききれない感じだったのでちゃんと文章をまとめて来月の法話に書かせて貰おうと思う】
by bongu04200420
| 2011-09-22 14:05